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船の暮らし
かつて舟運が盛んであったころ、各地の河川や内海は物資輸送路として今日の自動車道のような役割をになっていました。湾岸に開けた首都東京の水上にも一九六〇(昭和三十五)年ごろまで“はしけ”(艀)と呼ぶ運搬船や材木輸送の“いかだ”(筏)が行き来していました。 次の作文は、一九四〇(昭和十五)年ごろに一年男子が書いたものです。
戦前の一年生は片仮名を習ったため片仮名になっています。父親は回漕店に雇われている達磨船の船頭(船乗り)で、家族で船に住み込んでいます。 四人の子どもたちは就学のため陸住まいをしています。長女は浅草(台東区)の女子商業学校に、次女は向島(墨田区)の親戚から高等小学校に、三女と作者は全寮制の水上小学校に在学しています。 次は、一九五二(昭和二十七)年ごろに五年女子が書いたものです。
水上小学校開校
一九三〇(昭和五)年八月、「東京水上尋常小学校」(以下「水上小学校」)設立が東京府より正式に認可されました。当時の小学校は尋常科(六ヵ年)と高等科(二ヵ年)で構成され、尋常科が義務制になっていました。 学校所在地は、京橋区月島西仲通九丁目五番地(現・中央区勝どき一丁目十一番地)です。東京の代表的繁華街、銀座四丁目交差点から晴海通りを南に進み勝鬨橋を渡って右、現在中央区立勝どき敬老館・児童館が建っています。 九月五日に開校式が挙行されました。泊りっきりの学校の誕生です。学校長には水上協会理事長の寺坂藤楠が就任しました。東京の新聞は、水上小学校の開校を、
の見出しで報道しました。 しかし開校時の実態は児童三二人、職員は校長・教員三人、寮母一人、炊事婦二人という山間地の分教場にひとしい規模でした。東京一小さな独立小学校ということができます。 校舎は二八五坪(九四〇平方メートル)の敷地に、平屋建て板張りの仮設校舎を教室三、寝室二、事務室、浴場、食堂、炊事室に改造したものです。 開校一年目は、児童三二人を一・二年生と三年以上(六年は在籍者なし)の二学級に編成、一二歳で一年生という児童もいました。開校七ヵ月後の学年末には一・二年の学習を修了し、三年に進級した者が五人いました。学力に応じて進級させる特進制度があり、年齢超過児童は三年間で義務教育(六ヵ年)を修了することができたのです。 二年目は児童が四〇人に増え、低・中・高の三学級編成となりました。年度末には第一回卒業生として四人を送り出しました。その後学校の存在が知られるとともに児童が増え、開校五年目には六八人、一〇年目には九八人に増えました。しかし一学年一学級になるのは開校一三年目のことでした。 水上小学校開校の一九三〇(昭和五)年当時は、第一次世界大戦の戦後不況に始まる世界恐慌の影響で都市、農村を問わず深刻な生活難におちいった時期です。労働賃金の値下げや不払い、会社の倒産が相次ぎ、コメの値段は下がり、生糸の輸出減で繭の値段は半値以下に暴落しました。 翌年には東北、北海道が大凶作となり、仕事を求める人たちが都市に流入しました。不況が深刻になるとともに子どもに弁当を持たせられない家庭が続出しました。一九三二(昭和七)年、文部省は全国で二〇万人に達した欠食児童のため「学齢児童就学ノ徹底ヲ期ス」として、弁当支給の給食を実施しました。 このような世相は水上生活児童の未就学、中途退学の増加となって現われました。一九三三(昭和八)年の東京市調査による水上児童(普通小学校への通学を含む)の中途退学者六六人、未就学児童一三八人となっています。 このような社会不安はやがて軍部の台頭を招き、一五年間にわたる戦争への道を歩むことになるのです。 |